ガバ/ハードコアテクノの音源を取り扱う店といえば、渋谷のGUHROOVY。ガバ、UKハードコア、JコアなどのBPM180以上の音楽を親しんでいれば知らない人はいないはず。先日、2018年1月21日にGUHROOVYの実店舗の営業が終了するツイートが公表され、多くのリスナーや関係者を驚かせた。
GUHROOVYの店長は、ガバ/ハードコア・テクノのDJでもある、DJ CHUCKY。彼と90年代から親交のある筆者は久々に連絡を取った。そして今回の実店舗閉店を期に、黎明期のシーンを振り返ってもらい、店長になるまでの経緯、国内から生まれたシーン、楽曲制作、内情を含めた今後についてを伺った。
ちなみに国内のガバに関する歴史は「日本のガバ年表」などがあるので、そちらを参考にしてもらいたい。ナードコアなどに関する情報も検索すれば出てくるので、この記事ではDJ CHUCKYから見たシーンの備忘録と展望を楽しんで読んでもらえたらと思う。
取材・構成:高岡謙太郎
写真:小林一真
– まずはお店を始める前から。DJを始めるきっかけ、ガバとの出会いから聞かせてもらえますか?
DJ CHUCKY – もともとはスラッシュメタルとかグラインドコアとか速めのバンド系を聴いていて、そこからテクノ全般を聴きはじめて。『Loud』(クラブ雑誌)が紹介していた当時の流行りがあって。テクノからワープハウス、ドラムンというジャンルの変化で、全部通ったけど物足りなさがあって。そこにガバがドンッて入ってきた感じ。
たしか96年頃かな。新宿のVINYLJAPANってレコード屋で掘ってたら、Shockwave(ドイツのレーベル)のレコードがあってクソ速いテクノで、なんだこれは!って。そこからロッテルダムとか掘っていって、なんやかんやでガバにどっぷりになった。
90年代前半の抜けてる音源をブックオフとかレコファンで掘って、新譜レコードはシスコやディスクユニオン、西新宿の小さいレコ屋で掘ってました。97年に出版されたクイックジャパンのガバ特集をきっかけにクラブにも通うようになった。当時は恵比寿みるくの「Murder House」ってイベントが毎月200人は入っていて、ほぼ毎月通ってました。
– 日本の初期のガバの象徴的なイベントですよね。出演者がガバやノイズなどジャンルを横断していて。不良が集まっていて雰囲気は怖かった印象があるんですけど、どうでした?
DJ CHUCKY – ガバ系のイベントは大小いくつかあったけど「Murder House」だけは変な感じだったかな。パンクスから当時のおしゃれっ子が集まっていて。数回に1回は、フロアにあるテーブルがガシャーンって倒れて(笑)。「Murder House」に影響を受けてDJ始めたり、パーティー始めたりした人が結構いて、凄い影響力のあるパーティーだった。「Murder House」とは対極的に、Hyper Rich(日本のインディレーベル)が下北の屋根裏でよりアングラ感あるライヴイベントをやってて色々カオスな時代だったと思います。
– その辺に遊びに行きつつ、自分でDJしたのはいつでした?
DJ CHUCKY – 最初は恵比寿のちいさいハコでやったんだよね。あと、渋谷の現在のヨシモト∞ホールが、昔はINTIっていう大きなゲーセンで、なぜかDJブースがあってイベントができたんだよね。音もそこそこでかくて。
– テクノ系のDJが毎日のようにプレイして。テクノが流れてるゲーセンというか。
DJ CHUCKY – 90年代って感じだよね。
– そういうのはカフェやバーのDJに移行した感じですね。自分の転機になったイベントとかありますか?
DJ CHUCKY – 1999年と2000年に渋谷asiaでやった「ユーマノイドタイフーン」。オーガナイザーとしての初イベントだったんだけど、予算出すからやってくれって言われて。1回目で600人来て、2回目は800人来て、店内のエアコンが効かないぐらいお客さんでパンパンになった(笑)。出演者のジャンルは、わざとばらけるようにしたんだけど、ハードハウス、トランス、ガバ、ハッピーハードコア、ナードコアという感じで。1回目はゲームの『超兄貴』のキャラクターをフィーチャリングして、全部込みで150万くらいの予算をマーチャンダイズとクラブイベントに突っ込んでた(笑)。2回目は協賛にチュッパチャップスとかいっぱい付いて。フライヤーも大量に作ったけど、大判のポスター数百枚作ったりもしていて、今考えると結構バブリーだったなと。1回目、2回目共に予算がハンパなかったので滅茶苦茶苦労したし、お客さんが沢山居る前でDJしたのがこれが初めてで。そういうのもあってとても印象深いです。
– パーティに600人も入ったのは、どういったネットワークだったんですか?
DJ CHUCKY – 2000年近辺ってクラブが流行ってた時期だったから、頑張って宣伝してフライヤー刷れば刷るほど客が来てた。それと今と比べてフライヤー置いてくれる店もいっぱいあったし。フライヤーをいろんなイベントに行って撒く“外販“って作業が効果的で、朝方クラブの外にオーガナイザーやDJが並んでフライヤーを撒いていて。
外販で印象深いのが、新宿CODEのエントランスの裏で、パーティ中にフライヤーを重ねて束を作っていて。それを朝まで1000セット作ったりというのをほぼ毎週やってました。自分のイベント開催までにフライヤーを配るイベントが何回かあるから、結局必然的に1万枚刷らなきゃいけなくて。800人入れたイベント(ユーマノイド2回目)は、二つ折りのA5フライヤーを2万枚刷ったんですよ。当時はフライヤーも高かったから8万円して。でも全部捌ききりましたね。
あと、「WIRE」(日本最大の屋内レイヴ)でフライヤーを撒いてた時期があって。普通にフライヤーを持っていくと捨てられるから、CD付きのフライヤーを2000セット配っていて。それで来てくれる人がいたからね。WIREでCD配ってたのはうちくらいだと思う(笑)。
– ネットでの告知よりも効果あった?
DJ CHUCKY – 紙とネット、どっちも効果があった。ネットはTeacup(BBS・掲示板)を使ってたかな。掲示板で定期的に告知をしながらフライヤー撒いて。フライヤーは刷ったら刷った分だけ勝てる感じだった(笑)。あとは大箱に箱客がいた時代だから、箱客で100人は来る。当時のasiaはフライヤーを持っていないお客さんを売り上げにカウントしてくれなくて……。しょうがないからasiaの坂の下でフライヤー配って(笑)。
– 当時、他のハードコア系のパーティでは「ハードコアメジャーリーグ」が盛り上がってましたよね。
DJ CHUCKY – 俺も当時スタッフもしていて。結局「ユーマノイドタイフーン」も、「ハードコアメジャーリーグ」のオーガナイザーの川島くん(DJ Kawashima)が作ったやり方に影響を受けていて。それまでハードコア系でオールジャンルのイベントをやると叩かれる風潮があったから。ガバだったらガバのみのイベント、ハッピーハードコアならハッピーハードコアのみのイベントだけでやってたんだけど、それを混ぜ込んだのが川島くんが初だった。
– 他にハードコア系ですごい人はいますかね?DJ急行さん?
DJ CHUCKY – 急行くんはすごかったよね。ナードコアのほとんどのユニットに入ってMCしていて。
– 急行さんが国内向けで、逆にCHUCKYさんが海外の文化を紹介する印象でした。
DJ CHUCKY – 当時はそんな感じだったかもね。どっちかっていうと俺はDJ方面だったから。
– 当時のシーンには破天荒な人が多かった印象ですが。
DJ CHUCKY – 当時変な人多かったよね。どうやって暮らしてんの?みたいな。お客さんも演者も関係者も変な人が多かった。そういう雰囲気も面白かった要因のひとつじゃないかな。サブカルっぽかったよね。メインで流行ってたクラブのイベントがあまり居心地が良くなくて、こっちに来る人もいて(笑)。LIQUIDROOMもYellowも色々イリーガルなモノが蔓延してたりしてて、それがダメな人も来たりしていて。
– それからオーガナイズしたパーティは「GABBADISCO」「X-TREME HARD」とか。
DJ CHUCKY – 「GABBADISCO」は2000年台初頭。エクハドは2002年から今まで。他に2006年から「THE DAY OF HARDCORE」をずっとやっていて、いま自分がやってる1番でかいイベント。最初は有料で2008年頃からフリーで、毎年500人くらいコンスタントに集客してる。
– 海外のDJもRob Geeとか、DJ MAD DOGやAniMeなど海外で有名なDJをちゃんと呼んだり。
DJ CHUCKY – Rob Geeは「GABBADISCO」で2回呼んでるんだよね。凄い大雑把な人と見せかけて、実は結構色々気を使ってたりとプロ意識がすげえなって当時思った。来日するまで結構頭おかしい人ってイメージだったので (笑)。あとMAD DOGは、MAD DOGとAniMeを一緒に呼んだ時は既に有名だったけど、MAD DOGを単体で初めて呼んだ時は、まだ全然名前が浸透してない頃で。2009年にRotterdam RecordsからリリースされたTha Playah vs. DJ Mad Dogの”Enter The Time Machine”が大ヒットしてそこから超人気DJになったのは驚きました。
オーガナイズをやってて嬉しい事のひとつは、ウチで呼んだきっかけで日本で注目されるようになってくれる事ですね。Akira ComplexやDaniel Sevenは今凄い注目されてるし、去年デイオブで呼んだMitomoroは、3月にまた日本来るんだけどこれで来日3回目。
GUHROOVY開店に至るまで
– GUHROOVYが始まったのはいつでしたっけ?
DJ CHUCKY – はじまったのは1995年。(自分は)1999年頃から働き始めた気がするんだけど記憶が曖昧なんだよね。原宿駅前のテント村ってあったの知らない? 今GAPがあるところに仮設のテントが並んでいて、創業者の内堀彰社長が物を売っていて。雑貨やミックステープ、香水とかエアマックスも売ってたり(笑)。
– 奥渋谷の入口あたりに移転してから、CHUCKYさんは働き始めたんですよね。
DJ CHUCKY – 原宿から渋谷に移転してから名目上はミックステープ屋としてやっていて、ヒップホップからドラム&ベース、レイヴ系のミックステープを扱ってた。当時ガバ音源に飢えてた俺は「ガバのミックステープが置いてある」って情報を聞きつけて通うようになって、その当時の店員さんと仲良くなって入り浸るようになって。半年ぐらい通ったあたりで内堀社長に雇って貰った。その後、しばらくミックステープを売ってたんだけど、ミックステープが売れなくなってきていて。それでCDの委託に徐々に移行していった。シャープネルとかの自主制作CDを置き始めて、それからナードコア系のCD全般を置くようになった。
– あとレコードも置いていましたよね。
DJ CHUCKY – 当時、ハッピーハードコアのレコードはQレコ(Q RECORDS)が独占で販売する権利持っていて、Qレコが仕入れたレコードをQレコの流通でいろんなところに卸してたんだよね。2000年頃にQレコが潰れた頃からは、レコード難民が押し寄せてきて。Qレコが閉店してからは独占契約が無くなったので取り扱いができるようになった。これが大きな転機で。
2000年代初めから中盤ぐらいまで、とりあえずハードコアは何を入れても売れていた。当時はディストリビューターだけでなく、レーベルと直接やり取りして、デッドストックや旧作を毎月500枚ぐらいまとめて輸入してた。あとプロモ盤を早めに入れてホワイト盤を売ったり。GUHROOVYからリプレスをお願いしたタイトルも数タイトルあって。Metal Oneの”Melodies Of Passion II”はこのリプレスのせいで今でも日本ではMakinaのアンセムのひとつとして今でも人気があります。あと、Luna-Cによるうる星やつらネタ、Kniteforce Recordsの”Ataru“。ダブプレートでしか出回ってなかったのを、「どうしても売りたいから刷ってくれ」って頼んで300枚限定で作って貰ったんだけど、滅茶苦茶売れた。
あとガバ系で当時一番人気があったRuffneck(オランダのレーベル)のアナログも、レーベルに在庫を全部買うと言って大量に仕入れた。当時Wedlockの“Ganjaman”とか中古で一万円以上付いていて。うちで大量に仕入れた事によってヤフオクとかの中古市場が値崩れしてたのはちょっと面白かったね。
– 他に東京でハードコアを扱う店ってありました?
DJ CHUCKY – うーん。メインで扱う店はほとんどなかったかな。Qレコが扱ってないレコードが吉祥寺のワルシャワや渋谷のリバプールにもちょろっとあったりしたぐらい。
GUHROOVYで働く前の話になっちゃうんだけど、96〜97年頃、当時は新宿で働いてて、毎日西新宿から新宿のディスクユニオンまでレコード屋を一周してた。そうすると必ず1枚ぐらいガバレコードが出てくるから、それをひたすらディグってた。間違えて入荷したようなのが数枚入っていて。
それと、Ciscoアルタ新宿店にMid-town(オランダのディストリビューター)のリストを持って「ここからここまで全部買うんで!」って言って、個人的にお願いして入れてもらっていた(笑)。。リストはインターネットで見つけたり、レコ屋にファックスで届くリストを貰って。そういう地味なディグり作業もGUHROOVYでレコードを扱うようになってからは辞めちゃったので、その後のハードコアのレコ事情は疎いですね。
– ガバ/ハードコアテクノ自体は、日本であまり雑誌に載らなかったからアンダーグラウンドだったけれどネットワークがあってシーンがあって今でも続いてる印象がありますが。
DJ CHUCKY – ちゃんとメディアで取り上げられたのって『クイックジャパン』のガバ特集ぐらいだったかな。後はフリーペーパー文化がまだあった頃だったので、レコ屋で吊るしてあるフリーペーパーが情報源だったり。
ナードコアからJコアへの変遷
– 国内でガバが知られてからナードコアが出てきましたよね。シャープネルとか。
DJ CHUCKY – ガバブームが一段落してからナードコアブームが始まった印象ですね。当時ナードコアの主役クラスが多数参加してた「スピードキング」ってイベントが盛り上がりを牽引してて。日本語のサンプルがバンバン入ってるテクノは当時新鮮でした。
– ナードコアで印象に残ってるライブとかありました?
DJ CHUCKY – レオパルドンの馬殴り(馬のマスクを被った人を殴るパフォーマンス)とか、カラテクノのライブ、DATゾイドの全裸ライヴとか(笑)。
– 高速音楽隊シャープネルの双子の兄弟がライヴ中にプロレス始めたり。ナードコアのライブの面白いところはMCが一緒にいたことですかね。
DJ CHUCKY – MCって居ましたっけ? マイク使うより口パクでサンプルに合わせるみたいなライブが多かった気がします。とにかく意味が分からないセンスのパフォーマンスが多くて、そこが魅力でしたね。
– ナードコアは日本発信なんですか?
DJ CHUCKY – そうね。「(サンプリング)ネタものテクノ」がナードコアと言われ始めのが日本発祥で間違いないと思うけど、誰が言い出したとか発祥は諸説あるんだよね。当時『クイックジャパン』で特集されてからその名前が定着した感じだと思います。
– インディペンデントの音源を扱う店が少なかったんですよね。自主制作のCDは売れてたんですか?
DJ CHUCKY – 吉祥寺の33や原宿のbinary、新宿のロスアプソンとか数店舗で取り扱いがあったんだけど、GUHROOVYでナードコア系のCDを取り扱うようになってからは、GUHROOVY1強みたいな感じになって。CD-Rのリリースでも普通に2~300枚は売れていて。当時早めにインターネットの告知を導入してたのもあって、とにかく音源に飢えたお客さんが毎日通ってくれてました。そのうち徐々にCD-RからプレスCDに移行するようになったんだけど、当時CDプレスは500枚で20万円したから今の2倍ハードルが高くて。でも、何か出せば買ってくれる風潮があって、それのお陰で上手く移行できた気がする。
– ナードコアからJコアに変わった転機を教えていただけますか。それも諸説ある?
DJ CHUCKY – 諸説はないんだけど(笑)。もともとJコアの起源は、シャープネルみたいなアニメサンプルのハードコアを海外でJコアって呼ぶようになって、そこから拡大してって日本産ハードコア=Jコアに変わってきた。いまだに「Jコア=アニメのネタものテクノ」みたいなイメージの人がいて、そういう人からはJコアはあんまりいいイメージはないかな。その線引きもまた面倒臭いというか、よく揉める原因になってるから。「俺はJコアじゃねえ」みたいな。
– ジャンルの線引きは揉めますよね。ナードコアだけどJコアじゃないとか。
DJ CHUCKY – ナードコア自体は、スピードキング世代、バラバラに活動するようになった2000年代後半あたりでムーブメントが一旦断絶しちゃってるから。個々の音楽のスタイルも変わったり。
– その後にJ-COREが出てきた印象なんですけど。
DJ CHUCKY – 2000年の中盤から、オランダのNeodashとかがJコアって使い始めた。それから2000年代後半までジワジワと”J-CORE”と言う呼び名が広まっていった感じですね。3年前にRed BullでJ-COREの特集記事があったんだけど、やっぱりJコアの定義絡みでネットで揉めて(汗)、その時にシャープネルのJEAと色々と調べ直したのは良い思い出です。
ジャンルの成り立ちって、自分から提唱して定着するパターンと、周りから言われて蓄積されて定着していくパターンがあって。Jコアは周りから言われて出てきた感じがあるから、その辺が曖昧なところがあるのかな。「Jコア=日本産ハードコア」だって言っても、その中でもいろんなジャンルがあるから、ジャンルじゃなくて大きなカテゴリかな。
それと「日本産ハードコア=Jコア」なのに、なぜか外国人が“Jコア”タグをSoundCloudで使ったりしてて。それも後で派生して“Gaijincore”って新しいタグに生まれ変わったり(笑)。
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Source: FNMNL フェノメナル